さよなら2020年

ふりかえってみると、2020年は私にとってそれほど良い年ではなかったように思う。感染拡大前夜のすべり込みという感じで2月に四国を旅行できたのは素晴らしい体験だったが、そのあとは散々だった。


7月に久しぶりに実家へ帰ってみると、家族仲はものの見事に冷え切っていた。実は2月にもそれらしい予兆があったのだが、大丈夫だから、と口を揃える2人の言葉を信じていた。だから、その崩壊ぶりに私は愕然としてしまった。車で自宅へと帰る道すがら、「切ない」という言葉が浮かんできた。何が切ないのかはよく分からないのだが、どうしようもなく切なかった。自分がいろんなものを失くしてしまったような気がした。


自宅の玄関を開けると、私は自分がひどく孤独になったように感じた。自分が果たして何者なのか、分からなくなった。追い討ちをかけるように仕事でも普段の生活でも不愉快なことが続いた。それでずいぶんがっかりして、気持ちも冷え込んでしまった。置かれた状況に私はひどく混乱し、苛立っていた。苛立ちは連鎖的に次のトラブルを運んできた。やがて何をする気も起きなくなった。たまに電車に乗ってどこかへ出かけようとしても、途中で無気力に苛まれ、何もせず家へと引き返すなんてこともあった。忙しさを理由にして食事を摂らなくなった。そんな風にして自分を見棄てる作業を楽しんだ。仕事を片付けると、家に閉じこもってずっと本や論文を読んでいた。ひたすらページを繰って、目に入ってきた一文一文を貪るように読んだ。


11月にゼミの同期の2人と神保町で会った。そこで私は自分のことを少し話した。聞いて楽しい話ではないはずなのに、2人が嫌がることなく受け止めてくれたおかげで、気持ちの方はずいぶん楽になった。


でも私がひとりの人間として本当に回復する足掛かりを掴んだのは、12月にオンラインで先生と話してからだと思う。年の瀬という忙しい時期にも関わらず、先生は私のために時間を割いてくれた。普段は話す内容を事前に決めてから先生と向かい合うのだが、今回は自分の感じていたことをそのまま先生に向かって投げつけていた。私がひとしきり話した後、先生はつとめて明るく私に言葉をかけてくれた。言葉のひとつひとつに熱がこもっていた。そしてその熱は私の身体を底から温めてくれた。深夜まで続いた会話が終わったとき、私は残りわずかとなった2020年をなんとか乗り切れそうな気がしていた。


子どもの頃から、人々が11日をなぜこれほどまでに重要視するのかが分からなかった。父親が初日の出を見に行くぞと毎年けしかけるのが、私には理解不能だった。1231日の朝陽と、11日の朝陽とでは何が違うというのだろう?


しかし、今年はこの11日を有効に使おうと思う。私はそろそろ態勢を立て直さなければならない。その立て直しを、202111日から始めることにする。



ちなみに今年の漢字は「顧」

今年の音楽は井上陽水-人生が二度あれば

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6 ERASだったら…


何か失敗をしたら大抵の人は、そのミスを二度と繰り返さないようにする。失敗をバネに、次は是が非でも成功に繋げようと意気込むタイプの人もいるだろう。けれども悲しいかな、世の中には次に生かしようのない失敗というものが存在する。たとえばこんな具合に。


先日、B'z5週連続で無観客ライブを配信していた。私は友人の提案で、そのライブをカラオケパセラで視聴することにした。カラオケチェーンの中でもパセラは特に設備が充実しており、パソコンで再生している映像を大画面に映しながら最新鋭の音響設備で楽しむことができるのだという。もちろん部屋にはWi-Fi環境も整っている。配信ライブを見るのにこれ以上の場所はないと思われた。


5回のライブのうち4回は池袋のパセラで見た。最初は果たして本当にパソコンとモニターを接続できるのかとか、途中でサーバーがパンクしてしまわないかとか、いろいろと気を揉んだ。しかし、そんな心配はすべて杞憂に終わった。いざパソコンとモニターが繋がれば、パソコンの映像は滞りなくモニターに映し出された。私たちは安堵し、その安堵はすぐにライブの興奮へと変わった。


ところが、最後の最後に落とし穴が口を開けて私たちを待ち構えていた。5週連続ライブの最終日、私たちはお互いの仕事がどうしても片付かず、池袋に集まるのが難しい状況に置かれた。そこで私たちは妥協案として、パセラ銀座店を最終日の"ライブ会場"に選んだ。そしてこの決断が悲劇を招くことになる。


異変はすぐに起こった。パセラ銀座店のWi-Fi日本シリーズ讀賣ジャイアンツよりも弱かった。その弱さたるや配信動画の再生どころか、webサイトへのアクセスも覚束ないほどである。苦肉の策として私のiphoneを使ってデザリングを試してみたところ何とか配信ページにはたどり着いたのだが、それでも電波はお世辞にも良いとはいえず、何度か配信が途切れてしまった。加えて、その日は月末だったこともあり、ライブ中にiphone通信制限がかかってしまうのではないかと気が気でなかったことばかりが記憶に残っている。


こうなった理由は単純明快。パセラ銀座店には地下の部屋しか存在しなかったためである。池袋店ではビルの6階や8階の部屋を利用していたため、通信環境は申し分なかった。しかし地下とあっては、同様の通信速度は望めない。かくして私たちの5週連続ライブはすっきりしない結末を迎えることになった。6週目のライブは、もちろんない。


このように、次に生かしようのない失敗というのは辛い。もっと詳しく言い換えるなら、失敗が失敗のままで終わるのが辛いのである。このブログを読んだ人にだけでも、パセラ銀座店はライブ配信の視聴には適さないと伝われば幸いである。尤もその前に、新型コロナウィルスの一刻も早い収束を願わなければ

もっと切り刻んで もっと弄んで


何かがおかしい。


その日、僕はいつものように家の鍵を開け、いつものように部屋へ足を踏み入れた。そこで僕は強烈な違和感に襲われた。ここには何かがある。と思ったのも束の間、僕は突如として後頭部に鈍い痛みを感じた。誰かに金属バットで後ろから思いっきり殴られたのだと直感的に分かった。しかしそれで何かが解決するものでもない。僕はなすすべなく、フローリングの床に倒れ込んだ。


意識はある。殴ったのはどこのどいつなのだろう。僕は向き直って"犯人"と対峙した。すると、そこには一人の女性が立っていた。この顔はどこかで見たことがある。いや、どこかなどというレベルの話ではない。毎日見ている。僕はふと部屋の壁に目をやった。そこには笑みを浮かべたアイドルのポスターがある、はずだった。ところが、今僕が見ているポスターにはそのアイドルの姿がない。朝まで僕に微笑んでいたアイドルは魔法のように消えていた。その瞬間、僕はまたも直感的に、このアイドルがポスターから飛び出してきて、仕事帰りのくたびれた男を殴ったのだと思い当たった。


彼女は僕の前で仁王立ちの姿勢を崩さない。そして、その容姿に似つかわしくない低くくぐもった声でこう言った。

「今からあたしがなぞなぞを出してあげる。時間は1分。答えられなかったら、あなたを殺すからね。」

状況を飲み込めないでいる僕に構うことなく、彼女は続けた。

「目を開けると見えないのに、目を閉じると見えるもの、なーんだ。」

目を閉じると見えるもの?

考えても分からないので、とりあえず目をつぶってみた。しかし答えは出てこない。こうしている間にも、彼女はバットを床に叩きつけてカウントを取っている。5、6、7。まずい。僕はとっさに携帯を手に取り、震える手で先生にメールを打った。分からないことを教えてくれるのはいつも先生と相場が決まっている。送信して返事を待った。だが、30秒待っても、40秒待っても答えは返ってこない。焦りはピークに達しつつあった。50秒経過。僕はすがるような気持ちでディスプレイを穴が開くほど凝視していた。しかし、そこに返信はなかった。


彼女は握っていたバットをまるで棒切れのように放り投げて僕の正面にやってきた。60秒が経ったことが分かるまでそう時間はかからなかった。もう死ぬのだ。こんな時なのに、やっぱりかわいいなという場違いな感想が頭をよぎった。そう考えることを許さないかのように、彼女は僕の喉を鷲掴みにした。その力は華奢な腕からは想像できないほど強い。頭ががんがんする。息が苦しい。僕はスピッツラズベリーという曲を思い出していた。君のヌードをちゃんと見ることなく僕は死ぬ。意識が遠のいてくる。これが年貢の納めどきか。三途の川はもうすぐそこ


携帯のけたたましい着信音が、僕をこの世に引きずり戻した。携帯を手に取り、スピーカーをオンにすると、電話口の声が叫んでいるのが聞こえた。

「夢よ、夢!目を開けると見えないのに、目を閉じると見えるものは夢!」

しかし、彼女は首を絞める手を緩めない。とすると先生が間違っていたのか。それも今となってはどうでもいい。好きな人の声を最後に聞きながら好きなアイドルに殺されるのは、案外本望と言えるかもしれない。目の前が真っ白になってきた。少し休ませてくれ。もう限界なんだ


起き上がった僕はヒゲを剃り、ドアを開けて会社へと向かった。

1分10秒の快楽「モナコGP」


世界3大レースといえば、インディ500、ルマン24時間レース、そしてF1モナコGPを指す。なかでも、華やかさで他の追随を許さないのがモナコGPである。舞台となるモンテカルロ市街地コースは四方をガードレールに囲まれており、ドライビングミスを犯した際に逃げこむエスケープゾーンもほとんどない。ドライバーの技量や集中力が求められるサーキットレイアウトといえる。距離にして3.34km。2020年時点でのコースレコードは1分10秒166(ルイス・ハミルトン)。世界一の難コースを一周してみよう。



まずは『ホームストレート』。ストレートと言いつつも単純な直線ではなく、右に緩くカーブしているのが特徴である。

280km/hまでスピードを上げると、1コーナー、『サン・デボーテ』が見えてくる。90度の直角右ターンはイン側の縁石を使いながら通過する。コース幅が狭いため、アクシデントが起こりやすいのが特徴。現に、1995年や2012年には多重クラッシュが発生している。

続いて急な登り坂を左右にカーブする『ポー・リバージュ』。スタート直後の20台の隊列が矢のようにこのコーナを駆け上がっていく様は圧巻の一言。

坂を登り切ったところにあるのが『マスネー』。イージーな左コーナーに見えるが、2010年にはここで当時フェラーリを駆るフェルナンド・アロンソがクラッシュ、モノコックにまで及ぶダメージを受けるほどであった。

その先のコーナーは『カジノ・スクエア』と呼ばれている。グラン・カジノの前の広場を回り込むカーブは、いかにもモナコらしいコーナー名といえよう。

短いストレートを通過すると、『ミラボー』がドライバーを待ち構える。ここは下りながらのブレーキングとなるため非常にトリッキー。2014年の予選ではメルセデスニコ・ロズベルグがここでブレーキングミスをしオーバーラン。後続のチームメイト、ハミルトンはタイム更新が不可能となり、物議を醸した。ちなみに、セクター1の計測ポイントはここにある。

次のコーナーは『ロウズ・ヘアピン』。かつては付近に駅があり、ステーションヘアピンと呼ばれていた。現在でも、フェアモントヘアピンなどの別称がある。ここの通過速度は50km/h以下となり、F1カレンダーでは最低速度。加えて、このきついヘアピンを曲がり切るために、モナコGPを走るマシンには特殊なステアリングアングルのセッティングが施される。

ヘアピンをクリアすると2つの右コーナーが続く。この2つ目を特に『ポルティエ』と呼ぶ。港という意味のコーナー名が示す通り、ここからマシンは海沿いを走ることとなる。1988年には独走態勢を築いていたマクラーレンアイルトン・セナが突然クラッシュ。チームメイトのアラン・プロストにトップを奪われリタイアする出来事があった。

『トンネル』はモンテカルロ市街地サーキットのハイライトの一つ。右にカーブしながら全開で駆け抜ける。2004年にはシーズン5連勝中だったミハエル・シューマッハがここでウィリアムズのファンパブロ・モントーヤ接触。タイヤが曲がった状態でトンネルから出てくるフェラーリの姿は世界に衝撃を与えた。

『ヌーベル・シケイン』はモナコで数少ないオーバーテイクポイントの一つ。2006年にはルノージャンカルロ・フィジケラが前を走るBMWザウバー、ジャック・ビルヌーブのインを襲い、抜き去った。このオーバーテイクフィジケラ曰く「レース人生で最も爽快だった瞬間」だという。一方、シケイン手前は急激な下り坂になっており、バンプもあるためマシンの姿勢が乱れやすい。2011年にはロズベルグザウバーセルジオ・ペレスがここで大クラッシュを演じた。

短い直線の後にある高速の左コーナーは『タバコ屋』と呼ばれる。観客席の裏にあるタバコ屋が由来。こういった名称も実に市街地コースらしい。2013年にはウィリアムズのパストール・マルドナドが前を走るマルシャのマックス・チルトンと絡んでマシンが一瞬飛び上がり、そのままクラッシュ。バリアの修復のため、レースは一時赤旗中断となった。

セクター2の計測ポイントを通過すると、矢継ぎ早に2つのシケインをクリアする。ここは『プールサイドシケイン』。左、右と素早くステアリングをさばいたあと、間髪入れずに減速して右、左と通過する。

再びスロットルを開けると見えてくるのが、『ラスカス』。コーナーの内側にあるレストランが名前の由来という。2006年の予選ではミハエルのフェラーリがコースを塞ぐようにストップ。他車のアタックを妨害したとして予選タイムが抹消されたのはあまりにも有名。だが翌年の予選、同じくフェラーリキミ・ライコネンも手前のプールサイドシケインでサスペンションアームを損傷させ、曲がりきれずにここでストップ。2年連続でフェラーリがラスカスに"駐車"したことはあまり知られていない。

急角度な右カーブ『アントニー・ノーズ』を立ち上がると、フィニッシュラインはもう目の前である。

栄光のチェッカーフラッグを一番に受けたドライバーは、「他のサーキット3勝分の価値がある」モナコGPの優勝を達成することになる。

君の目の前に川が流れる



AKB48!!

やおら流れた高橋みなみの声が、そう広くない車内の隅々まで響き渡った。助手席に座って同行していたインターンの大学生の、その瞬間の驚きはマスクでも隠せていなかった。私は、恥ずかしさを紛らわそうと、営業車のアクセルペダルを強く踏み込んだ。


人はいつでも救いを求めている。

学生時代は友達や先生がその役目を担ってくれていた。それが今はAKB48に変わった。ただ、それだけのことだ。


夕陽が沈む空の下、取引先とのやりとりを終えて、営業車に乗り込む。ラジオから聞こえるうら若いアイドルの歌声が、疲れ切った心を優しく包み込んでくれた。救いを求めていた自分がAKB48の虜になるまでに、時間はかからなかった。


RIVER」がリリースされたのは、20091021日。AKB48は、この楽曲ではじめて、オリコンチャートで週間1位を獲得した。ここに至るまで、彼女たちは、予定調和を嫌う秋元康プロデューサーのもと、様々な課題に真正面から向き合ってきた。夏まゆみをはじめとする振付師が突きつける厳しいレッスン、毎日おこなわれる劇場公演、握手会、総選挙で露わになるメンバー間の格差。歌もダンスも得意ではなく、あるのはステージで踊りたいという夢だけ。その夢を携え、オーディションを受けた彼女たちはいくつもの荒波を乗り越え、いよいよブレイクスルーを迎える、そんなタイミングだった。


インターンの大学生を連れて、ある取引先のドアをノックした。

その取引先は2年前、まだ新人だった私に容赦なく無理難題を強いてきた。納期を早めろ、もっと値引きしろ、商品には傷ひとつつけるなー。少しでも口答えすると、すぐに所長に電話をかけ、もっと使えるやつを寄越せと怒鳴り散らした。申し訳ありませんでしたと頭を下げる所長の横で、自分ほどこの仕事に向いていない人間はいないと、目の前が真っ暗になった。


『この先輩のいいところは、仕事はできねーけど、一生懸命頑張ってる姿勢だ。こいつは、仕事のできなさをやる気でカバーしようとしてる。それはそれで、大事なことだと思うようになったよ』

素人の学生が隣に立っていた事実を差し引いて考える必要はある。だが、いつも厳しい言葉を浴びせてくる人間の口から放たれた意外な言葉は、素直に私の心に染み入った。と同時に、私の頭の中で、さっきまで聴いていたAKB48の楽曲が浮かび上がってきた。刹那、仕事を始めてからの私が、どうしてAKB48に再びハマるようになったのか、その答えが分かった気がした。

(そうか、オレは、AKBになりたかったんだ。)

商品知識が少ないからミスも多い。巧みな話術もない。気の利いたお世辞は思い浮かばない私は、営業として失格の烙印を押されても仕方がない。だが、何かに向かい、手を伸ばし、もがいている構えだけは崩さずにいよう。社会人になって3年目の私はそんなことを考えた。


私が求めているのは救いではなく、目標なのかも知れない。学生時代は友達や先生だったが、今はAKB48が私の目標だ。彼女たちは「RIVER」の締め括りをこう歌って、私を励ましている。


「川を渡れ You can do it!!

吉祥寺駅から徒歩7分のマンションに住んでそう

「朝イチで保健室に来るのはね、登校途中に転んで膝や手のひらにすり傷を負った生徒たち。遅刻しそうで急いでてって人が多いわね。」


「そういうときに手当てをしながら思い出す話があるんだけど。当時、社会人講座ではやりの脳科学の講演を聞くためにはじめて降り立った淵野辺駅。電車を降りて時計を見たら、ギリギリ間に合うぐらいの時間。でも方向は合ってる?大学構内で迷うかも?と考えながら大急ぎで階段を下っていたのよ。」


「次の瞬間。身体が宙に浮いたかと思ったら、膝下をズズーッと擦りながら階段を数段落ちてたの。たしか日傘とバッグも飛んだかな。」


「すごい鮮やかな血が出てね。親切な人にバッグを拾われて、大丈夫ですかって声をかけられたんだけど、転んだことに気が動転しててさ、恥ずかしいし、痛いし。まあ速攻で立ち去ったよね。結局、講座に間に合うのはもう諦めてさ、薬局でガーゼ買って応急手当したんだけど。」


「でもね、池上くん、ここからが大事なところでさ。当時は大人なのに転んで恥ずかしいっていうのと、家を早く出とけばっていう後悔があったんたけど、今にして思うとね、すり傷だけで済んでよかったなって。階段から変な角度で落ちてたら、捻挫とかしてたかもでしょう。人間の身体って不思議なものでさ、こんなどんくさい私でもとっさの反射で防御体勢が取れたのかもね。」


「生体防御反応ってのはさ、身体を守るけど、逆に身体を苦しめてくるときもある。アレルギー反応とかでね。蕁麻疹出たりとかさ。池上くんも大人になったら分かるよ。だけどね、そういうときには身体の免疫機能が働いてるって考えてみて。インフルとか風邪が治るのも免疫のおかげ。あれ、私、今なんかすごい保健室の先生っぽいこと言ってる!?」


「免疫で防げるものも、防げないものもあると思う。だけど、自分が今持っている身体でずっと生きていくんだからね。30年後池上くんは何してるのかな。10年後は?1年後は?明日の自分は?今日、今、何をするかで、決まってくるのかも知れないね。」



先生ごめん。ミドリカワ書房の歌詞のように安全ピンをめった刺ししてくれ…。

部屋を整理していたらこんな原稿がでてきた。


本日は、こうした場所で、お話しする機会を設けてくださり、ありがとうございます。クラウドファンディング成功者ということで、この集いに参加することができたことを光栄に思います。お招きいただいた○○(運営サイト)の担当者の方にも感謝しています。これだけは最初に言っておこうと思っていました。


さて、私たちは「フィリピンで女性の生計と子どもたちの教育環境の改善をしたい!」というプロジェクトを、○○さん(運営サイト)を通しておこないました。実施者は学生団体を謳っていますが、内実は、言ってしまえば大学のとある弱小ゼミです。


私のゼミでは、国際協力について学んでいます。所属しているのは学部の3年生と4年生です。ゼミにはスローガンがありまして、それは、「理論と実践の架け橋」です。これは、教室での座学だけにとどまらず、実際にフィールドに出て、頭と身体の両方を使うことを重んじているという意味のこもったフレーズです。同時に、学生が国際協力を「実践」している姿をアピールすることで、同年代、つまり若い世代に、国際問題への関心を持ってもらう、これも私たちのゼミの大事なテーマです。


さて、「実践」の一環として、私たちは昨夏、フィリピンの農村部、ヌエバビスカヤ州という場所を訪れました。首都マニラからはバスで8時間。辺りは山に囲まれていて、そこから流れ出る水を活かした農業が盛んな地域でした。


しかし、農業は気候に左右されやすく、収入は不安定になりがちです。例えば、日本列島と同じように、フィリピンも夏は台風の通り道となるのです。台風がやってきて、畑を荒らし、作物を根こそぎダメにしてしまうということが、フィリピンでも起こっているんです。


こういう時、男性であれば力仕事をして収入を得ようとか、町へ出稼ぎに行こうとか、いろいろ選択肢が考えられると思うんです。ですが、女性はなかなかそうはいかない。子どもがいたりすれば、尚更です。そこで、私たちは農村部の女性たちにフォーカスして、資金集めをすることにしました。


女性にフォーカスした理由はもう一つあります。それは、村の将来を担う子どもたちの存在です。村の女性たちが収入を獲得し、それを自分の子どもたちに投資することを、生計向上の先のゴールとして見据えているのです。お母さんが稼いだお金で、子どもに文房具を買ってあげる。こういうことが村の未来にとってすごく大事だと思っているんです。


どうしてクラウドファンディングで資金を集めようと思ったかということをお話しすると、今まではそうしたプロジェクトに使うための資金を路上募金で集めていました。でも、実際に道端に立っていると、寄付してくれる年齢層って限られているんですよね。特に、若い人たちはほぼ素通りなんです。この現状を、インターネットを通じた環境でなら変えられるんじゃないかと思ったんです。周知活動というのは、かなり大きなテーマとしてありました。


私はプロジェクトのリーダーとして今ここに立って話していますが、そもそも、このクラウドファンディングは、4年生がやりたいと言いだしたものだったんです。彼ら彼女らも、路上で支援を呼びかける中で、若い世代への周知というのはずっと悩んでいました。そうした状況で、クラウドファンディングをやりたいという話が出てきたのは、去年の6月ぐらいだったような気がします。


しかし、4年生は卒論を書くので、クラウドファンディングを実際にスタートさせる頃には、まともに手伝ってくれないというのは火を見るより明らかだったんです。対して、私たちの学年は私たちの学年で、クラウドファンディングという言葉を知っているのが私しかいなかったんですね。というのも、私はレースが好きでF1なんかをよく見るんですが、そのF1チームが参戦資金を捻出するためにクラウドファンディングをやったことがありました。それで、はじめてクラウドファンディングを知ったんです。


当然のように私がリーダーに選ばれたんですが、はっきり言ってクラウドファンディングには大反対でした。まず、お金を受け取る以上、そこには責任が発生します。路上募金なら一瞬で済むかも知れませんが、ネットには誰がどこにいくら寄付してっていうのが一生残る。もしプロジェクトが失敗したら?不用意な言葉で炎上したら?小心者の私は、インターネットという大海原に漕ぎ出すのが怖くてたまらなかったんです。


ましてや、皆さんご存知のように、クラウドファンディングを立ち上げ、ゴールまで導くには、ものすごく多くのリソースを必要とするわけです。サイトに載せる写真を探す、文章を考える、集まった金額に応じてwebサイトを更新する、支援してくれた方々一人一人にお礼をする、リターンを梱包して送る、これらにはものすごく手間と時間がかかります。普段のゼミ活動で精一杯の私たちが、こうした諸々を抜かりなくこなせるのかという不安で、プロジェクトを始める前から押しつぶされそうでした。


やるからには全力を尽くそうと思って取り組みましたが、最初から躓きました。キュレーターの人にははじめの3日間が勝負の分かれ目だと言われましたが、私たちのプロジェクトは3日どころか1週間、ゼロ行進が続いたんです。胃が痛かったです。だからこそ、最初に支援が入ったときは嬉しかったというよりホッとしました。ゼミメンバーのお父様が寄付をしてくれたんです。あれはまさに、絶望の先の一筋の希望の光でした。


そこから、プロジェクトは徐々に軌道に乗り始めました。私たちのプロジェクトでよかった点は、支援金を1000円から募ったことだと思います。目標金額が20万円だったので、1000円では効率が悪いとキュレーターの方には反対されましたが、たとえ1000円でも、国際協力に参加したいという方々の気持ちをすくい上げることができたのは私たちにとっても大きかったです。


最終的に39人の方々から温かいご支援をいただき、プロジェクトは無事に成功しました。でも、私たちのゴールはここではないと思っています。皆さんの思いの詰まったお金を現地に持っていき、この手で直接渡し、どのように使われるのかまでを見届けるのが私たちの責任だと感じています。


もう一度クラウドファンディングをやりたいか?成功者の皆さま、そして運営サイトの関係者の方々がいる前で恐縮ですが、2度とやりたくないです。人が汗水流して稼いだお金をいただくのは大変なことです。思うように支援金が集まらず、苦悩した夜は一度や二度ではありません。時にはゼミ内で軋轢も生まれましたし、多方面に迷惑をかけたりしました。私がいまだにプロジェクトの達成を手放しで喜べない理由はこういうところにあるんじゃないかと感じてます。私たちの後輩には、クラウドファンディングに頼らない、新しい形の周知活動を考えついて実践してほしいと切に願っています。といっても、彼らはここにいないわけですが。


『貴重なお話ありがとうございました。では、次の方、お願いします。』




(この原稿は2017年3月におこなわれた「クラウドファンディング成功者の集い」にてスピーチされる予定だった原稿です。内容はもちろん先生と相談しました。しかし当日、私がどうしても布団から起き上がれなかったため、この内容が世に解き放たれることはありませんでした)