2019年、秋晴れの鈴鹿サーキットにて

   かつてこんな冗談を聞いたことがある。

「レースが好きなら、サーキットには行くな。」

   野球やサッカーやラグビーを見るのとは違って、サーキットの観戦席からは「レース」を把握することはできない。サーキットは大きすぎるし、レーシングカーは速すぎて、目の前を通り過ぎるのは一瞬だ。私の席から見えるのは、2コーナーを立ち上がってきたマシンがS字を駆け抜け、逆バンクへと消えていくまでのほんの10秒ほどである。190秒の10%強。そんなもののために、安くはないチケット代を払って、強い日差し、はたまた雨風に耐えながら見るのがレースなのだ。レースの全体像を捉えるのならば、テレビ観戦の方がよほど向いている。おまけに今年は台風19号の影響で、土曜日のセッションがすべてキャンセルとなった。私は金曜日に有給休暇が取れるほどホワイトな企業に勤めていないので、F1マシンを見る機会に恵まれたのは日曜日の予選と決勝のみとなってしまった。たった1日の走行のために、交通費やチケット代を支払い、人ごみに耐えながら観戦するのだ。こんなに馬鹿馬鹿しい話はない。

   それでも、陳腐な表現で恐縮だが、ナマで見ないと分からないことというのも、確かにある。観戦席に腰を下ろして最初に驚いたのは、フェルスタッペンとルクレール、若武者たちのマシンの走らせ方だ。レッドブルフェラーリを駆る2人の21歳はS字の縁石を大胆にまたぎ、目の前を通過していく。対してメルセデス2台はスーパースムーズ。何周走っても、百発百中で同じラインに乗せられるかのような正確さである。チームメイト間で最も差があったのはレーシングポイントである。エースドライバーのペレスはS字から逆バンクへのラインを大きく取っているのに対し、ストロールはやや縮こまった走りに見えた。圧倒的にスピードが足りないのはルノー2台。去年まで緩慢な動きをしていたマクラーレンの動きが思いのほかクイックで感心していると、フェラーリセバスチャン・ベッテルが眼を見張るような速さで走り抜けていった。まるでドライバーがイタリアの跳ね馬を手なずけ、進みたがっている方向に、進みたがっている速度で走らせているようにさえ映る。事実、今年の鈴鹿サーキットを最も速く駆け抜けたのは彼だった。こうした細かいいちいちが、観客席にいると見える、ように思える。テレビでは見えないものが現地では見えるということとはまた少し違う。そうではなくて、全体を捨て視野を狭めてようやく部分の解像度が上がるといえばいいのか。「すべて」を代償に、眼前のことだけを知る。私にとってそうできるのは観客席だけで、だからそこに座ってみる。それを、やめられない。

   レースは、1周目の2コーナーでフェルスタッペンが他車に押し出されてコースアウトし、どこか不完全燃焼なレースとなった。私はどこかのチームに肩入れするたちではないが、彼がいないレースはいささか迫力に欠けるものがあった。そのフェルスタッペンをレース序盤に追い回していたのは奇しくも同じ21歳、度胸満点でS字を攻めていたルクレールであった。何があったのかは分からないが(展開が分からないのが観客席だから)彼もグリットポジションからは大きく順位を落とし、後方でのバトルを余儀なくされていた。

   レース終盤。もうすっかり陽は西に傾き、レース前までホンダジェットが飛んでいた空に、心なしか寂しさが漂っている。トップを行くのはシルバーアローのボッタス。午前中にスーパーラップを見せたベッテルは、急激に差を詰めてきたもう1台のメルセデス、ハミルトンに対し防戦一方だ。ふと1コーナーのほうを望むと、A席の先に日本の地方都市らしい鈴鹿の街並みと、伊勢湾の深い青が覗く。水平線はなく、海向こうに遥か知多半島の低山の稜線が立ち上がっている。方角的にはちょうど中部国際空港があるはずだけど、それを窺わせるものは認められない。見えるものと見えないものは場所によって変わる。コースに意識を戻す。2コーナーからS字、逆バンクへと、色とりどりのF1マシンが走り抜ける。ここではレースのことは1割しかわからない。順位の把握だって無茶苦茶だ。でも、昨日の荒れ狂った空模様が嘘のような晴れ空の下、素早く左右に向きを変えて加速していくマシンを見ていると、ふと何かがわかっているように思える。私がいるのはそういう場所だ。

   冒頭の冗談に、私ならこのフレーズを付け足す。

「レースが好きなら、サーキットには行くな。しかし、本当にレースが好きなら、サーキットに行け。」