行かなくちゃ君に会いに行かなくちゃ


四国に降り立って最初に感じたのは、水滴、だった。空から降る水滴、そう、雨である。乗り換え駅の岡山に着いたときから嫌な予感はしていた。上を見上げれば真っ黒な厚い雲。新幹線の窓には雨粒がついていた。日本一晴天の多いという岡山県出身の知人が「たしかに岡山はあまり雨が降らない」と言っていたのだが


大学時代の友人が高松駅のロータリーで待っているというので、駅を出てそこまで走る。そういえば、大学3年の夏に彼とヒッチハイクで京都に行った時も、途中でもの凄い雨に降られたなと思い出した。


彼とは大学のゼミが同じだった。当時からなんの縁なのか、ペアワークなどで一緒に作業をすることが多かった。2人とも横浜ベイスターズのファンだし、ポケモンの話をすると止まらないし、AKBが好きだったりと、共通点も多い間柄だった。


ロータリーに着くと、白のプリウスが私を出迎えた。彼はレンタカーを手配してくれていたのである。私は悪いなと思いつつもそれに乗り込んだ。仕事でいつも長時間クルマを運転しているので、助手席に座るのはなんだか妙な感じだ。


そもそも、私が四国を訪れたのは、うどんを食い倒れてみたいというささやかな、しかし抗いがたい欲望からだった。もともと読書、とりわけ旅行記が好きな私は、村上春樹の「辺境・近境」という本を読み、そこで香川県の魅力に取り憑かれた。本の中では、香川県内のあちこちのうどんが、いかにも食欲をそそるような表現で描写されていた。そういえばと思って自分の24年と少しの人生を振り返ると、四国地方には足を踏み入れたことがないと気づいた。カレンダーをめくり、次の3連休を探して、矢印を引っ張り、その上にこう記した。「香川旅行」。


その欲望はすぐに叶えられた。慣れない助手席に戸惑いつつ、高松駅から20分ほどクルマを走らせると、「一福」という赤い看板が見えてきた。このうどん屋に入ってまず驚いたのは、客の多さである。30人ぐらいは入れそうな店内は、まだ10時半という時間にもかかわらず、半分以上の席が埋まっていた。家族連れの姿もある。繰り返すが、時刻は10時半である。朝食というには少し遅いし、かと言って昼食にはまだ早い。そんな微妙なタイミングでこんなに多くの人がうどんを食べているのである。


カウンターで受け取った冷やかけうどんを口に入れると、次の驚きに襲われた。とんでもなく美味いのである。まるで肉厚なステーキを噛んでいるかのようなコシ、鰹のだしが存分に感じられるつゆ。それらに花を添えるのは、友人に勧められてトッピングしたゆで卵の揚げ物である。これら3つが絶妙なハーモニーを奏でていた。麺をすすればすするほど、胃袋が幸福で満たされていくのが感じられるようだった。


次に向かったのは、坂出市にある「日の出製麺所」である。「製麺所」という名の通り、ここはもともと麺を作る工場があるだけだったという。ところがこの麺を店頭で食べさせてほしいという声に押され、毎日1時間だけ営業しているという幻の店なのである。


店に入ると、飲食スペースの倍の面積はあろうかという大きな製麺機が目に飛び込んできた。なるほど製麺所の名は伊達ではない。あくまでメインは製麺なのである。それを最も体現していたのがつゆだ。運ばれてくるどんぶりには自慢の麺が入っているだけ。つゆは、テーブルに置かれたどこの家庭にもあるようなポットから直接注ぐ方式である。さらに、テーブルの上にはポットの他に、ネギとハサミが置いてあった。そう、ハサミを使って、ネギをその場で輪切りにしてうどんに添えるのである。満員の店内で、老若男女がネギをちょきちょきと切っている姿はなかなかにシュールだった。


うどんを2杯平らげて満足した私たちは再びプリウスに乗って走り始めた。これから桂浜に行くよと言われたが、それは何県にあって、どれぐらいかかるのか、皆目見当もつかない。


四国地方の地図を頭に思い浮かべてもらえればすぐに分かるが、今いる香川県から高知県に位置する桂浜に行くには、徳島県を通る必要がある。この徳島県にある祖谷渓に立ち寄ったのは素晴らしい経験だった。ここはまさに秘境で、底が透き通って見えるほどキレイな川が、鬱蒼と茂った森を縫うように流れている。千葉県にある亀岩の洞窟に行った時にも同じような状況に陥ったのだが、秘境を目の当たりにすると、他の人にこの場所を紹介したい気持ちと、あまり有名になりすぎて人々がたくさん訪れるようになって欲しくない気持ちとが、私の中で激しくせめぎ合うことになる。


祖谷渓をあとにした頃からだろうか、それまで降っていた雨が止み、雲の間から日差しが降り注ぎ始めた。もうワイパーを回す必要はなくなった。そして、桂浜に到着する頃には、空は完全に晴れ渡っていた。砂浜を濡らす荒れ狂った波だけが、今まで天気が荒れ模様だったことを伝えているようだった。小高い岩場を登ると、紺碧の海と青い空が目に美しい。かの坂本龍馬は生前、土佐の中でもこの場所をとりわけ気に入っていたと言われているが、それも十分に頷ける絶景が目の前に広がっていた。


さて、今日の旅の最終目的地は、高知市の中心部にあるひろめ市場である。この市場には海の幸を売る店、居酒屋、みやげ物屋などが所狭しとひしめいていて、とても活気がある。ただそこにいるだけで楽しくなるようなスポットだ。市場の中央にはフードコートのような机と椅子が並んだ広いスペースがあり、地元の人たちが酒を飲みながら料理に舌鼓を打っている。そこでは見ず知らずの他人同士が相席になり、いつの間にか会話が弾むなどということもあるらしい。ひろめ市場はさながら、高知市民の心の拠り所とも言える場所なのかもしれない。


ただ、問題はその混み具合である。ひろめ市場に到着したのは午後5時ぐらいだったが、すでにそこかしこで宴会が始まっていた。私たちの席はどこにも用意されていなかった。結局私たちはひろめ市場での飲食を諦め、外にある別の店で夕食を取ることにした。


ここで食べたカツオのたたきは絶品という他なかった。正直に言って、カツオがここまで肉厚な魚だとは知らなかった。関東のスーパーで売られているものとはまったくレベルが違いすぎて、同じ種類の魚とはにわかに信じがたいほどだ。そのカツオを、スライスした玉ねぎやニンニクと一緒に食べると、これ以上の幸せはないように思えてくるのだった。


この旅に彩を加えてくれたのが大学時代の友人であることは疑いようがない。彼とは道すがら、クルマの中でいろいろな話をした。最近のことやゼミ時代のこと、話のタネは尽きなかった。彼がいなければ、私は四国でうどんを食べるだけだった。祖谷渓や桂浜に足を運ぶことはなかっただろう。そんなことを考えながらふと空を見上げると、星が瞬いていた。そういえば、長い長いヒッチハイクの末に京都にたどり着いた時にも、星が私たちを称えるように光っていた。旅はまだ終わらない。次の朝になれば、見たことのない景色が私たちを待っていることだろう。



<つづく>