NUEVA VIZCAYA PILGRIM TOUR

"KATHMANDUツアー"ってやると、旅行会社みたいになるじゃない?『カトマンドゥツアー298000円!』とか。だから間に"PILGRIM"って入れればそういう感じがしないかな、と思って入れたんだ。それが本心。」 

これは松任谷由実が自身27枚目のオリジナルアルバム"KATHMANDU"を引っさげておこなったアルバムツアー"KATHMANDU PILGRIM TOUR"のタイトルの由来を聞かれたときに、夫でありアレンジャーの松任谷正隆が答えたものだ。私は帰りの飛行機でこのエピソードを思い出し、今回の旅行をこう名付けることにした。"NUEVA VIZCAYA PILGRIM TOUR"と。


かつて自分が行った場所を再び訪問するのは悪い体験ではない。過去の自分がそこで感じたもの、交わした言葉、吸った空気、聴いた音楽、それらが身体にダイレクトに襲いかかってくるのを感じることができる。たしかにいくつかの痛い思いもしたが、それさえも思い出という補正がかかり、かつての棘を失っているかのようだ。


私は大学生の時に、大学のゼミでフィリピンのルソン島にあるヌエバビスカヤ州を2度訪れた。そこは首都のマニラからバスで8時間はかかる山あいの州で、豊富な水資源に支えられた農業が盛んな場所だ。そこでの私たちのゼミの活動についての詳細は他に譲るが、このヌエバビスカヤはとにかく私にとって多くの思い入れが詰まった濃厚な土地なのである。


マニラの空港のベンチで横になって夜を明かしたあと、日本のとあるNGO団体の職員の方が手配したバンに同乗させてもらい、ヌエバビスカヤ州を目指した。学生時代に私がゼミの活動でフィリピンを訪れたことは先に述べたが、このNGO団体は私たちのゼミがフィリピンで活動するきっかけを作ってくれた経緯がある。さらにこのNGO団体は、国際協力塾という日本の大学生向けのセミナーを毎年夏にここフィリピンで開催している。その都合で、バンには私と職員の方以外に5人の日本人学生が乗っていた。学生たち(といっても院生もいたため、私より年上の学生もいた)は見ず知らずの私を温かく迎えてくれ、そのおかけでこの旅行はより一層楽しいものになった。


ジェラートが美味いという道中のカフェでコーヒを飲んだせいだろうか(こんな店に立ち寄る余裕は学生時代のゼミにはなかった)、ヌエバビスカヤ州に向かう峠を上っていくにしたがい、私の心もハイになってきている。これまではゼミの活動という大義名分を掲げて訪れていたヌエバビスカヤ州に、今度は純粋な気持ちで足を踏み入れる。やることは何も決まっていない自由な旅。そのことがひどく私の心を高揚させた。


行ったことのない方のために少しだけ話すと、ヌエバビスカヤ州には観光地と呼べるものは何一つない。近くにバナウェという、世界遺産に登録されている棚田があるのだが、しょせんはその経由地にすぎない。したがって多くの人々にとって、ヌエバビスカヤ州は通り過ぎるだけの町なのだ。そしてフィリピンという国全土がそうであるように、料理も美味いとは言えない。しかしながら、2日目に州の中心部から車で30分ほどかけて行ったビリャベルデという村で食べた新鮮なドラゴンフルーツとランブータンは、口に入れた瞬間に思わず頬が緩んでしまうほどみずみずしい味がした。フィリピンで食事に失敗したくなかったら、ひたすら果物だけ食べていることをおすすめする。


3日目にはNGO団体の職員の方や日本の学生たちに混ぜてもらい、パイタン村という、これまた自然豊かな素晴らしい場所を訪れた。125ccのスズキのバイク(運転手はかなり飛ばしていたが、スピードメーターが故障していたので何キロ出ていたのかは分からない)の後ろにノーヘルで乗り、小高い丘を越え、何度か道に迷いながら村の最奥部まで連れて行ってもらった。ゼミでヌエバビスカヤ州を訪れたときにはプログラムをこなすのに必死で、村の中を散策したりというチャンスは限られていたから、とても新鮮な体験だった。山に囲まれたわずかな平地に田んぼが広がっており、さわやかな風がまだ緑色の稲を揺らしていた。そんな光景を見ているだけで気持ちが穏やかになってくるのを感じる。


パイタン村では小学校にも行くことができた。フィリピンに行っていつも驚くのは、子どもたちのパワフルさである。それは日本の子どもたちの比ではない。彼らに何かを尋ねればありったけの大声でそれに答えるし、ありとあらゆる手段で身体的接触(ハグやハイタッチなんかはまだ生易しい方だ)を試みてくる。おまけに、ダンスを一度見ただけで覚えてしまう特殊能力を兼ね備えている。パイタン小学校の生徒も例外ではなく、コンニチワー!と大声で叫び、私たちが教えたDA PUMPのUSAをすぐに習得してしまった。彼らと一緒に遊んでいると、こちらも必然的に全力で立ち向かうことになる。陳腐な表現で恐縮だが、彼らと遊んでいると、こちらまで童心に帰ることができる。いや、帰らざるを得なくなるというべきだろうか。彼らと別れるときは、本当に後ろ髪を引かれる思いがした。


このように私はヌエバビスカヤ州での滞在を満喫したが、自分の振る舞いについていくつか反省もしている。まず、今回はマニラから遠く離れた場所を訪れるにもかかわらず、交通手段を何も調べていなかった。ヌエバビスカヤ州から帰るときには、時刻表を調べておかなかったばかりに、なんと2時間半もバスを待つ羽目になってしまった。私だけで待つならばまだよかったが、1人では心配だからとついてきてくれた現地の人たちにも迷惑をかけてしまう結果になってしまった。それでも現地の人たちは待っている間に一緒に歌を歌ってくれた。言うまでもなく、それは私にとって大きな慰めになった。また、2日目に行ったビリャベルデ村では、日本に興味を持っている村人たちから質問ぜめにあった。「日本はどうしてあんなに経済が発展しているんだ?」「日本の農業はなぜあんなに効率がいいのだ?」「日本では総理大臣はどうやって決めるんだ?」などと聞かれるたびに、自分の無知と、スズメの涙ほどの知識を伝えるだけの英語力さえもないことに恥じ入った。NGO団体が事業を展開しているパイタン村の人とは違って、ビリャベルデ村の人たちは日本人に会ったことなどないはずだ。つまり彼らにとって、日本人といえばユウトイケガミだと言っても過言ではないのだ。自国のことについてさえ知らないイエローモンキーは、彼らの目にどう映っていたのだろう。


ともあれ、私は無事に日本へ帰ってきた。バックパックの中には両替しすぎたフィリピンペソが残っていたが、私は日本円に換金することはしなかった。そう遠くない将来、私は今回の反省を生かしてヌエバビスカヤ州に戻っていくのだろうというたしかな予感があった。