ひねくれ者の罪深き我が正体

私のアパートの隣にはインド人が住んでいる。よく日に焼けた顔に無精ひげを生やしているから、私は彼を労働者かと思っていたが、話をしていくうちに彼は近くの大学に通う留学生なのだとわかった。今年の4月に日本に来たという彼の日本語は日に日に上達していて、それを見る私の目は敬意に満ちている。大学生のころ、最もイージーであるといわれた韓国語の単位を落とした上に、10年以上習っている英語すらまともに話せない私以上に、異国の言語を学習し操る難しさを知る人物はいないだろうと思うからだ。そればかりか、近頃は彼の発する日本語にはっとさせられることさえある。


ある日、私は彼と、海外旅行について話していた。というのもこのたび、私の所属している会社で、優秀な成績をおさめた社員向けに、ご褒美旅行なるものが設定されたからだ。行き先はインド、タイ、ミャンマーの中から選ばれるという。私は2年前にタイに行ったことがあるが、インドとミャンマーは足を踏み入れたことがない。だが、行ってみたいなあという気持ちはすぐに、会社の旅行で行ってもなあ、という気持ちに覆い被さられた。旅行の概要などは知る由もないが、どうせめぼしい観光地を巡って終わりなのは目に見えている。私はひねくれているから、せっかく海外に行くのなら、ガイドブックに載っていない場所を訪れてみたいと考えるタイプの人間だ。社員旅行など、性に合うはずがない。


彼の口から「スッパイブドウ」という言葉が返ってきて私は驚いた。キツネが手の届かないような高いところになっているぶどうを見て、あのぶどうは酸っぱいからとエクスキューズを吐いて諦めるという、あの童話のことだ。そんな言葉どこで覚えたんだと、私は苦笑いするしかなかった。そういうことは、まず優秀な成績とやらを出してから言えよ、と言わんばかりの、彼のメッセージだった。


こうなったら会社で一番の成績を出して、大手を振って君のカントリーのインドに行ってやるよ、と宣言して、私たちは各々の部屋へと散った。しかし、家のドアを閉めた私はふと思った。これでは社員のモチベーションを上げようとする会社の思うツボではないか。ひねくれ者の私にはそれさえも癪に触るのだった。

NUEVA VIZCAYA PILGRIM TOUR

"KATHMANDUツアー"ってやると、旅行会社みたいになるじゃない?『カトマンドゥツアー298000円!』とか。だから間に"PILGRIM"って入れればそういう感じがしないかな、と思って入れたんだ。それが本心。」 

これは松任谷由実が自身27枚目のオリジナルアルバム"KATHMANDU"を引っさげておこなったアルバムツアー"KATHMANDU PILGRIM TOUR"のタイトルの由来を聞かれたときに、夫でありアレンジャーの松任谷正隆が答えたものだ。私は帰りの飛行機でこのエピソードを思い出し、今回の旅行をこう名付けることにした。"NUEVA VIZCAYA PILGRIM TOUR"と。


かつて自分が行った場所を再び訪問するのは悪い体験ではない。過去の自分がそこで感じたもの、交わした言葉、吸った空気、聴いた音楽、それらが身体にダイレクトに襲いかかってくるのを感じることができる。たしかにいくつかの痛い思いもしたが、それさえも思い出という補正がかかり、かつての棘を失っているかのようだ。


私は大学生の時に、大学のゼミでフィリピンのルソン島にあるヌエバビスカヤ州を2度訪れた。そこは首都のマニラからバスで8時間はかかる山あいの州で、豊富な水資源に支えられた農業が盛んな場所だ。そこでの私たちのゼミの活動についての詳細は他に譲るが、このヌエバビスカヤはとにかく私にとって多くの思い入れが詰まった濃厚な土地なのである。


マニラの空港のベンチで横になって夜を明かしたあと、日本のとあるNGO団体の職員の方が手配したバンに同乗させてもらい、ヌエバビスカヤ州を目指した。学生時代に私がゼミの活動でフィリピンを訪れたことは先に述べたが、このNGO団体は私たちのゼミがフィリピンで活動するきっかけを作ってくれた経緯がある。さらにこのNGO団体は、国際協力塾という日本の大学生向けのセミナーを毎年夏にここフィリピンで開催している。その都合で、バンには私と職員の方以外に5人の日本人学生が乗っていた。学生たち(といっても院生もいたため、私より年上の学生もいた)は見ず知らずの私を温かく迎えてくれ、そのおかけでこの旅行はより一層楽しいものになった。


ジェラートが美味いという道中のカフェでコーヒを飲んだせいだろうか(こんな店に立ち寄る余裕は学生時代のゼミにはなかった)、ヌエバビスカヤ州に向かう峠を上っていくにしたがい、私の心もハイになってきている。これまではゼミの活動という大義名分を掲げて訪れていたヌエバビスカヤ州に、今度は純粋な気持ちで足を踏み入れる。やることは何も決まっていない自由な旅。そのことがひどく私の心を高揚させた。


行ったことのない方のために少しだけ話すと、ヌエバビスカヤ州には観光地と呼べるものは何一つない。近くにバナウェという、世界遺産に登録されている棚田があるのだが、しょせんはその経由地にすぎない。したがって多くの人々にとって、ヌエバビスカヤ州は通り過ぎるだけの町なのだ。そしてフィリピンという国全土がそうであるように、料理も美味いとは言えない。しかしながら、2日目に州の中心部から車で30分ほどかけて行ったビリャベルデという村で食べた新鮮なドラゴンフルーツとランブータンは、口に入れた瞬間に思わず頬が緩んでしまうほどみずみずしい味がした。フィリピンで食事に失敗したくなかったら、ひたすら果物だけ食べていることをおすすめする。


3日目にはNGO団体の職員の方や日本の学生たちに混ぜてもらい、パイタン村という、これまた自然豊かな素晴らしい場所を訪れた。125ccのスズキのバイク(運転手はかなり飛ばしていたが、スピードメーターが故障していたので何キロ出ていたのかは分からない)の後ろにノーヘルで乗り、小高い丘を越え、何度か道に迷いながら村の最奥部まで連れて行ってもらった。ゼミでヌエバビスカヤ州を訪れたときにはプログラムをこなすのに必死で、村の中を散策したりというチャンスは限られていたから、とても新鮮な体験だった。山に囲まれたわずかな平地に田んぼが広がっており、さわやかな風がまだ緑色の稲を揺らしていた。そんな光景を見ているだけで気持ちが穏やかになってくるのを感じる。


パイタン村では小学校にも行くことができた。フィリピンに行っていつも驚くのは、子どもたちのパワフルさである。それは日本の子どもたちの比ではない。彼らに何かを尋ねればありったけの大声でそれに答えるし、ありとあらゆる手段で身体的接触(ハグやハイタッチなんかはまだ生易しい方だ)を試みてくる。おまけに、ダンスを一度見ただけで覚えてしまう特殊能力を兼ね備えている。パイタン小学校の生徒も例外ではなく、コンニチワー!と大声で叫び、私たちが教えたDA PUMPのUSAをすぐに習得してしまった。彼らと一緒に遊んでいると、こちらも必然的に全力で立ち向かうことになる。陳腐な表現で恐縮だが、彼らと遊んでいると、こちらまで童心に帰ることができる。いや、帰らざるを得なくなるというべきだろうか。彼らと別れるときは、本当に後ろ髪を引かれる思いがした。


このように私はヌエバビスカヤ州での滞在を満喫したが、自分の振る舞いについていくつか反省もしている。まず、今回はマニラから遠く離れた場所を訪れるにもかかわらず、交通手段を何も調べていなかった。ヌエバビスカヤ州から帰るときには、時刻表を調べておかなかったばかりに、なんと2時間半もバスを待つ羽目になってしまった。私だけで待つならばまだよかったが、1人では心配だからとついてきてくれた現地の人たちにも迷惑をかけてしまう結果になってしまった。それでも現地の人たちは待っている間に一緒に歌を歌ってくれた。言うまでもなく、それは私にとって大きな慰めになった。また、2日目に行ったビリャベルデ村では、日本に興味を持っている村人たちから質問ぜめにあった。「日本はどうしてあんなに経済が発展しているんだ?」「日本の農業はなぜあんなに効率がいいのだ?」「日本では総理大臣はどうやって決めるんだ?」などと聞かれるたびに、自分の無知と、スズメの涙ほどの知識を伝えるだけの英語力さえもないことに恥じ入った。NGO団体が事業を展開しているパイタン村の人とは違って、ビリャベルデ村の人たちは日本人に会ったことなどないはずだ。つまり彼らにとって、日本人といえばユウトイケガミだと言っても過言ではないのだ。自国のことについてさえ知らないイエローモンキーは、彼らの目にどう映っていたのだろう。


ともあれ、私は無事に日本へ帰ってきた。バックパックの中には両替しすぎたフィリピンペソが残っていたが、私は日本円に換金することはしなかった。そう遠くない将来、私は今回の反省を生かしてヌエバビスカヤ州に戻っていくのだろうというたしかな予感があった。

ほどほどの人生のすすめ


先日、24回目の誕生日を迎えた。干支は12年でひと回りするから、もうかれこれふた回りは生きた計算になる。そこで、ある休みの日に、布団で寝っ転がりながら自分の人生について考えてみたので、以下に記したい。


朝起きて、鏡の前に立つたびに、自信のカケラも見えない暗い顔が映る。冴えないよなあ、と自分でも思う。

僕はすぐヒゲが伸びるから、毎朝自分の顔と対峙しながらシェーバーを繰らないといけない。10分かけてようやく身だしなみを整えて、家を飛び出していく。そうやって1日が始まっていく。


僕はないないだらけの人生を送っている。顔はいまいちだし、手先も器用じゃない。背だって高くない(むしろ低い)。歌は上手くないし、頭の回転も早くない。運動神経だって人並みか、それ以下かも知れない。だけど最近は、それでいいかな、と思えるようになってきた。

だって顔がカッコよかったら異性にモテまくって大変だろうし、背が高かったら飛行機で座席移動するときに苦労しそうだし、歌が上手かったらカラオケで歌いすぎて喉にポリープができそうだし、運動神経が良すぎてもスポーツのやりすぎで身体を壊しそうだ。自分は、何か特別な才能に恵まれていなくて本当によかったと思っている。そこに僻みはない。


パーフェクトを目指すことなんかない。人生ほどほどに生きていけばいいかなー。というのが、24年間生きてきた私の所感である。もちろん、異論は受け付ける。

二度と立てぬ痛手さえも受け入れてく不思議だ人は

みなさんは、千里の馬という諺をご存知だろうか?


たとえ、千里の道を走ることのできる馬でも、誰かがその実力を見いだしてやらなければ、才能は開花せず埋もれてしまう。というような意味なのである。


しかし、私は長いことこの諺の意味を誤解していて、まったく違う意味でこの言葉を理解していたのだが、その自分の独自の解釈に救われていたのだ。


私の解釈はというと、

生まれつきはどんな駄馬でも、千里を走ることができたならば、それは「千里の馬」なのだと。

歩き続けた先に見たいのは想像を超える風と光

    明日は仕事も休みだし明大前から御茶ノ水まで歩いてみるかと思い立った。蒸し暑い夜だったが雨は降っていない。絶好のウォーキング日和だ。

    とりあえず家から明大前を目指して電車に乗る。京王線の最終電車に乗った瞬間、もう引き返せないのだと悟った。電車の中で調べてみると、明大前から御茶ノ水までは11キロだという。1時間に4キロ歩けるとして、3時間かからずにいけるな、なんてことを考えた。

    明大前に降り立った。腕時計は0:30分。駅前にはまだ人がたくさんいた。この中でアルコールがまったく入っていない人はいるのだろうか。そんなことを頭に思い浮かべつつ、歩道橋を渡って明治大学和泉キャンパスの門の前に立った。当たり前だが門は閉ざされている。守衛所の夜警が不審げにこちらを見ている。そう。こんな時間に大学の門の前に立って、中をじろじろ見て、私は不審者以外の何者でもない。

    景気づけにと明治大学和泉キャンパスのまわりをぐるっと一周してみることにする。大学の裏手に出ると、何やら聞き慣れない言語が飛び交っている。ここは留学生専用の宿舎なのであった。若者が英語や中国語で談笑している。こんな建物があったのか。

    明治大学和泉キャンパスの隣は和田霊廟所というお墓である。佐藤栄作の墓があるらしい。ということは首相も訪れているのだろうか?それにしても夜通るには気味のいい場所とは言えない。ここまでくるともはや京王線の下高井戸駅に近くなってくる。甲州街道を東に向かうことにする。

    明治大学和泉キャンパスに戻ってきた。ウォーミングアップはすんだ。ここからいよいよなんの意味もなく脚を痛めつける戦いが始まる。時刻は1時ちょうどである。

    1人で歩いていると色々なことが頭を駆け巡る。たとえば、今私は東放学園専門学校の前を通っている。ここは映像系の専門学校だ。私はテレビはほとんど見ない。見るとしたら、NHKの「チコちゃんに叱られる!」と、大相撲放送ぐらいだ。NHK、ぶっ壊されては困る。受信料払ってないけど。

    そうこうしているうちに代田橋という地名が頻繁に目に飛び込んでくるようになった。駅と駅の間は人もまばらだが、駅が近くなってくるとすれ違う人が多くなってくる。少なくとも、この時間帯は。くたびれた姿のサラリーマン、やけに露出の多い服を着ているおねえさん、その他もろもろをかき分けて進む。

    京王線でいうと代田橋の次は笹塚である。甲本ヒロト真島昌利が出会ったという、あの笹塚である。笹塚の信号にはパトロール中の警察官がいた。人生23年間、何も悪いことはしていないはずだが、それでも背筋が伸びてしまう。ただいまの時刻、1:30分。

    甲州街道をさらに進むと、深夜1時まで営業とデカデカと書かれたスーパーが閉まっているのが見えた。その脇に小さく、幡ヶ谷店と書かれていたのを私は見逃さなかった。少しずつ御茶ノ水に近づいているのがわかって、私はうれしくなった。何事もそうだが、ゴールが見えていると人は比較的容易に前に進むことができる。

    カシオの本社前を過ぎる。ここには就活の面接で行ったことがある。あの時は初台から歩いて行ったから、もう新宿が目の前なのだと気づく。ちなみに、さすがにどこのフロアにも電気はついていなかった。尤も、時刻は1:45分。非常口の緑のランプ以外の照明がついている方がおかしい。

    私は普段歩く時はイヤホンで音楽を聴いている。だが、今回は周囲の音を感じたかったので、イヤホンはしないで歩いていた。しかし、この場所だからこそ聴きたい音楽がある。長渕剛の、西新宿の親父の唄である。やるなら今しかねえ。

    新宿駅についた。いつもは人でごった返している新宿は人の影もまばら。何より、駅にシャッターが下りていた。2時なので、当たり前といえば当たり前だが、見たことのない光景であることに間違いはない。世界一の乗降数を誇る駅が眠っているのだ。なのになぜ私はこうして意味もなく歩いているのだろう?

    新宿4丁目の信号で左折し、甲州街道に別れを告げる。そして新宿5丁目の信号を右に曲がる。距離的にもここから後半戦が始まると言ってよい。道に目をやると、タクシーが競い合うように何台も何台も走っている。東京の深夜タクシーを絶滅させれば地球温暖化は食い止められるのではないかと思うぐらい走っている。

    たった6キロしか歩いていないのに、脚が痛くなってきた。ここからの5キロは苦痛に満ちていた。一歩前に踏み出すごとに、左足の付け根が痛む。日常の運動不足が祟ったのだ。しかしこんなところでリタイアしているわけにはいかない。というより、歩き続ける以外に選択肢がないのだ。電車は動いていないし、誰かが迎えにきてくれるわけでもないからだ。

    とりわけ、新宿から市ヶ谷の靖国神社までの道のりは長かった。景色がちっとも変わらないのである。左手に聳える防衛省の建物を見ながら、自分のつま先を追いかける。防衛省の門の前では10台以上のタクシーが止まっている。建物を見ると、電気がついているフロアも多い。以前、明治大学駿河台キャンパスから東京タワーまで歩いた時もそうだったが、省庁は深夜まで電気が消えないのである。

    靖国神社を越えると、日本武道館が見えてくる。とは言っても、屋根の上に光る玉ねぎは闇に包まれて、その姿をうかがうことはできない。ここまできたかと思うと同時に、まだあるのか、とも思った。卒業式で武道館を訪れたあと、明治大学駿河台キャンパスまで戻るのに30分はかかった。ということは、少なくともあと30分は痛む脚と格闘しなければならないことになる。

    この頃になると、頭で余計なことを考えている余裕はもはやない。ただひたすら歩みを前に進めるだけだ。しかし、そうして歩いていれば必ず近づいてくるのがゴールでもある。そう、3:15分、ついに神保町の駅が見えてきたのである。

    ここまでくればもうすぐである。と、勇んで前に出した脚で、あやうく鼠を踏みかける。ドキッとした。飲食店が並んでいる通りでは特に鼠が多い。昼の東京を支配しているのは人間だが、夜の東京を支配しているのは鼠だと言っても過言ではないだろう。そんな一面を見たのも、明大前から御茶ノ水まで歩いたからこそである。

    3:22分。私は明治大学駿河台キャンパスの前に立っていた。やはり、守衛所の夜警のおじさんが不審そうにこちらを見ている。明治大学和泉キャンパスから明治大学駿河台キャンパスまで歩いてきた卒業生になぜ怪訝な視線を向けるのだ?疲れると人間は碌なことを考えない。まだ始発までは時間がある。ベンチに座って少し休もう…。そこに誰もいなくても。




恋の滓がまだ残っている

   みなさんの中に、いけない恋をしてしまった経験のある人はいるだろうか?たとえば、彼氏のいる女の子を好きになっちゃったとか、妻子ある男の人を好きになってしまったとか。

   高校生の頃に、先輩の彼女を好きになっちゃったりとかして。それで、先輩から締め上げられる。そんな青春を送りたかった。

   残念ながら僕のはいわゆる黒い青春だったが、僕だって人間だから、人を好きになったりぐらいはした。それも、どういうわけか、やたらと先生を好きになってしまうのである。学生と先生との恋。使い古され、手垢にまみれたパターンではあろう。しかし、なぜか何度もその罠にハマってしまうのである。断っておくが僕は決してリスクを好む性格ではない。目の前に石橋があったら、叩くどころか、自分より体重の重い人を先に渡らせて、確実に安全だと分かってから渡るタイプだ。


   これはあくまで僕の意見なのだが、ひとくちに好きといっても、その気持ちは2つに分けることができると思う。1つは、その人を慕っているという気持ち。これはむしろ憧れに近いような感覚だ。僕が高校時代に経験した恋はこのパターン。相手は、国語の先生だった。

   今でこそ文章を書くのが好きになったけど、高校に入るまでの僕はそういうのが大の苦手だった。どこの小学校でも、夏休みの日記や読書感想文はたいてい、9月の最初の授業で提出すると思う。だけど僕はそれを10月ぐらいまで出さないでおく。そうすると、その頃には担任の先生もだいたい忘れている。そんなことを何年も繰り返していた。

   高校の国語の先生に話を戻すと、彼女は自分の授業で、生徒に文章を書かせることを好んだ。それも、なんの脈絡もないテーマで。AIBOの商品プロモーション用の文章を書けだとか、においについて書けだとか。そんな課題が、唐突に降ってくる。しかも授業中に書いて提出させるので逃げ道がないのだ。

   だけど先生は、僕がひいこら言いながら書いた文章を面白がって読んでくれた。それで、よく添削してくれたりもした。やっぱり先生に褒められるってけっこううれしいものだ。それで僕は、文章を書くことに目覚めてしまったのである。

   そしてこの先生は、生徒に文章を書かせるのと同じぐらい、自分のエッセイを生徒に読ませるのが好きだった。このエッセイが毎回すごく面白くて、僕は毎回感激していた。言葉のチョイスや余韻の残し方、すべてが完璧だった。今でも配られたエッセイは全部とってある。それで、たまに見返して幸せな気分になる。これが僕の高校時代の恋である。しかし、これは恋というよりむしろ一般的には憧れと呼ばれるものだろう。いつか、先生みたいな文章を書きたくて、僕はちまちまとこんな活動をしてるのかもしれない。


   もう1つは、言ってしまえば、恋に落ちてしまうってやつだ。前の話と対比させると、あるいは恋愛感情と言い換えてもいいかも知れないし、恋と聞いて大多数の人がイメージするのもおそらくこちらだろう。僕にとってのそれは、大学2年のときにやってきた。当時の僕は、大学に絶望しきっていた。面白い授業はない。人と関わるとものすごく疲れた。何も起こらないまま大学の4年間が静かに、そしてムダに過ぎ去っていこうとしていた。

   そんなとき、たまたま春学期に取っていた英語の授業で僕はその先生に出会った。先生はとにかく美人だった。見た目は40歳ぐらい。若くはなかったけど、舞台女優みたいにいつも背筋が伸びていて、立ち居振る舞いが上品だった。身につけているアクセサリーがすごく綺麗だったのを今でも覚えている。

   とはいえ、安易に自分の想いを伝えることが、幸福な結末をもたらさないことは、痛いほど了解していた。アカデミックハラスメントという言葉の意味ぐらいは、19歳の男でも理解できる。すなわち、先生と学生が交際して、それが発覚したら、(特に先生の方が)ただではすまないということだ。先生は、今まで苦労して築き上げてきたキャリアがある。それをめちゃめちゃに壊す権利なんて、誰にもない。

   離れることもできないが、近づくこともできない。さてどうしたものか。これは本当に恥ずかしいから限られた人にしか話していないのだが、僕は悩んだ末に、大学の学生相談室を訪れた。こういうのはどこの大学にでもあると思う。平たくいえば、学生が相談員(だいたい教授や講師の場合が多いが)に、大学生活の悩みを打ち明け、その解決を図ろうとするものである。

   僕の相談相手はこれまた40歳ぐらいの女性講師だった。秘密は守られるというので僕が事情を包み隠さず話すと、講師はかなり遠回しに、あなたはまだ未成年なんだからやめておきなさいというようなことを言ってきた。しかし、自分が未成年だからというしょうもない理由では、この恋を諦めることに能わないから僕はここに来てあなたと話をしているのであって、なんだ話の通じねえ奴だなと思いながら学生相談室を後にした記憶がある。今になって考えてみれば、未成年が自分の倍はあろうかという年齢の異性に恋をする方がよほど異常であることは疑いようもないのだが。

   なんとかして先生との接点を増やしたい。そう考えた僕は、授業の備品に目をつけた。それはカセットデッキである。CDの後に続いて音読するという英語の授業ではよく目にする光景。そのために先生はピンクのカセットデッキを持ってきていた。僕はそれを運ぶのを手伝うことにしたのだ。それを教室から教員の控え室まで持っていく時間が僕にはパラダイスだった。時間にすれば5分足らずだったが、僕らはいろいろなことを話した。英米文学を研究している、シンディー・ローパーが好きなど、先生に関する情報はどんどん増えていった。それがたまらなくうれしかった。これが恋というやつなのだ。

   ところが、大学の授業は半期で終わってしまう。つまり、4月から始まった先生の英語のクラスは、7月には終わってしまうのだ。ひとたび学期が終わってしまうと、先生と関わることは(ウソのように)なくなった。これを恋愛では自然消滅と言うのかなとも思ったが、僕の場合はそもそも恋愛関係が始まっていない。あったともなかったとも分からない。そんな感じで、僕の大学2年の恋は終わったのである。そして、3年生になってキャンパスが変わると、僕はもう先生に会うことはなくなった。

   と思っていたが、そういえば3年生になって一度だけ先生と廊下ですれ違ったことがあった。先生は初めてみた時と同じように、背筋をピンと伸ばして凛々しく歩いていた。手にはあのピンクのカセットデッキが握られていた。


⭐️LONG TIME NO SEE
「お久しぶりです。会えてうれしいです。」
「いえいえ、こちらこそ。同窓会以来かしらね?あなたも元気そうで何より。」
「いや、先生に会いたくなったのはですね、この間、ニキ・ラウダっていう、伝説のF1レーサーが亡くなったんですよね。それで、関係者たちが追悼コメントを出してたんですけど、その中に、僕の人生を光り輝くものにしてくれてありがとうっていうコメントがあったんですよ。」
「うんうん。」
「それで僕、考えちゃったんです。僕の人生を光り輝くものにしてくれたのって、誰かなあって。そしたらもう、先生しかいなくて。」
「あら。」
「いきなり高校のときの話で恐縮なんですけど、1年生入りたてのころに、先生の授業で作文を書くってのがありましたよね。」
「確か、ソニーAIBOの企画書を書こうってテーマだったと思う。あれは毎年やってたから。」
「そうですそうです。今、はっきり思い出した。僕はダジャレが好きなんで、"AIBO"と、"相棒"を掛けた文章を書いたんです。そしたら、次の授業で、先生にすごく褒めてもらって。」
「その文章はね、よく覚えてる。あなたの相棒、愛犬ロボのAIBOって、キャッチコピーとしてもすばらしいなって。」
「ありがとうございます。これが僕の高校生活の数少ないポジティブな思い出です。この思い出を胸に生きてました。」
「あなたの高校生活は相当な暗黒時代だったってことね。」

⭐️文章の書き方

「先生は、とにかくワンセンテンスを短くしなさいって言ってたのがすごく印象に残ってます。」
「その方が絶対に分かりやすいから。長い文章はダメなのよ。」
「先生にそう言われてから、明らかに僕のスタイルが変わりましたね。どんな文章でも、一回書いて、そこからいかに一文を短くできるか。そう意識するようになりました。」
「回を重ねるごとに、あなたの文章のワンセンテンスは短くなっていった。」
「最初はすごく違和感がありました。だけど、一度書いたものを見直すっていう楽しみをだんだんと知りましたね。村上春樹も、執筆で一番おもしろいのは推敲することだって言ってて、なんとなくその気持ちがわかるようになりました。」
「もともと、文章を書くのは得意だったの?」
「大の苦手です。小学校のころの読書感想文は、毎年夏休みの最後の日に泣きながらやってました。」
「ははは。読書感想文でみんな文章を書くのが嫌いになるからね。」
「でも先生と一緒に文章を書いてると、そういうハードルみたいなものがみるみるうちに下がっていくのを実感できましたね。」

⭐️女の子座りはブルーベリーの味!?

「そうやって先生と関わっていく中で、仲が深まっていったような感触がありました。先生とここまで親密になったのは、僕の人生ではじめてだったかも。」
「1年生のころは副担任だったけど、2年生の時は私がクラスを持ったから、関係性は薄まるかなと思ったら…。」
「僕、よく覚えてるのが、教卓の上で女の子座りをさせられたんですよ。先生に。」
「えーっ!そんなことあったっけ。」
「ありましたよ。なんの話の流れでそうなったのかは忘れちゃいましたけど、突然先生が僕を教卓の上に座らせて。」
「覚えてないなあ。」
「やらせた本人は覚えてないっていう(笑)で、男って女の子座りができないよねっていうオチだったんですよ。」
「関節がね。」
「で、教卓から降りる時に、先生にクリーム玄米ブランをもらったっていう。」
「あのブルーベリーのやつ?」
「そうですそうです。だから、クリーム玄米ブランブルーベリー味は僕の青春の味というか(笑)」
「そんなの、青春にしちゃダメよ。もっといい思い出はなかったの?」
「ないんですよ。高校の時って、友達は数人しかいなかったし、いい思い出があんまりなくて。エンジョイしたとはとても言えないですね。」
「そうなんだ。それなりに楽しんでるのかと思ってたけど。」

⭐️誰かが待ってる、どこかで待っている

「大学ではマスコミの勉強がんばってたって言ってたけど…。」
「そうですね。マスコミに行きたいと思ったのも、先生との出会いがきっかけで。先生、たまに自分の書いたエッセイみたいなのを読ませてくれましたよね。あれに僕、毎回感動してて。自分もいつか人を感動させる文を書いてみたい!と思って、じゃあマスコミだ!と。」
「私があなたの人生を狂わせたわけね(笑)」
「いえいえ。とんでもない。その後、いろいろあって、結局マスコミは諦めたんです。」
「そうなんだ。」
「それが大学2年の時。大学3年からは、国際協力をやってました。」
ジンバブエだ。」
「たしかに(笑)ジンバブエではないんですけど、そこですごくいい出会いがあって。」
「あら、よかったじゃない。」
「いつか先生が、あなたを認めてくれる人がどこかであなたを待ってるみたいなことを言ってくれたような気がするんです。」
「卒業の時の手紙に書いたやつね。」
「それをすごく実感できるような、濃密な2年間でしたね。」
「つくづく思うのが、人生って必要な時に必要な人に出くわすようにできてるのよね。そして、必要なタイミングで別れる。」
「本当にそうですね。」
「生きてさえいれば、これからもそんなことがいっぱいあるはずよ。」

⭐️いざという時手を差し伸べられるかどうかなんだ

「直接の授業がなくなっても、僕はよく先生といろいろ話してましたよね。」
「勉強のこととか、人間関係のこととかね。」
「僕はけっこう悩んでしまうので、先生みたいに聞いてくれる存在がいるっていうのは、すごく助かりましたね。」
「なんかあなたは、放っておけなかったのよね。」
「ありがとうございます(笑)でも、すごく幸せなことだったと思います。高校生って、不安定な時期だし。」
「未熟と成熟が同居してるからね。」
「そういう時期に、なにかと気にかけてくれる人がいるってのは、僕にとって極めて重要でしたね。」
「覚えてるのは、あなたが3年生の遠足をパスした時。」
「あー、あれは、仮病を使いました(笑)友達がいなくて、行きたくなかったんです(笑)」
「それは知らなかった(笑)お土産買っていったわよね?」
「そうでしたね。覚えてますよ。複雑だったけど、ウン、うれしかったなあ。」
「でも、私はあなたの担任じゃなくてよかったと思ってる。」
「あー、それは、僕も思います。僕はずっと、バイトばっかりしてましたからね(笑)人付き合いは悪いし。間違いなく、クラスの和を乱すタイプですよ。」
「特に、私はバイトは嫌いだから。」
「そう考えると、すごくいい距離感でしたよね。べったりくっつくんじゃなくて、いざって時に手を差し伸べてくれるような。」
「偶然に感謝しないとね。」
「もう、今日会えたのだって偶然ですから。お時間とっていただいてありがとうございます。大学まで押しかけてしまって、すみません。」
「いえいえとんでもない。ごめんね、職員の会議があって。そろそろ行かないと。くれぐれも身体には気をつけてね。」
「ええ、先生も。さようなら。」



この対談は2019年5月某日、國學院大学渋谷キャンパスでおこなわれました。ありがとうございました。